発達障害だって、頑張るもん!

発達障害だって、頑張るもん!

注意欠陥多動性障害(ADHD)で自閉症スペクトラムな息子を持つママ・ココです。子どもを通して学んだ発達障害児への対応、工夫、その他色々な情報をたくさんの人と共有できたらいいな、と思っています。

 

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【幼稚園選びの基準】 何を基準にする?・中編 遊び中心幼稚園 VS 教育主体幼稚園

グリーンの背景にブランコをする子ども

 

こんにちは。ココです。

注意欠陥多動性障害(ADHD)で自閉症スペクトラムな息子の行動と会話から何かのヒントを綴っていく当ブログへようこそ。

 

さて、対照的な幼稚園を経験した息子を見て、私が感じたことは…。

 

● 幼稚園。遊び主体か、教育主体か。そこに集う先生も保護者もやはり対照的です。そしてもちろん、子ども達の性格も。

 

 

遊び中心の幼稚園ではストレスフリーだった息子

 

当時5歳だった息子は転園した幼稚園で、早くも「自己否定感」というものを蓄積することになってしまいました

 

遊びが中心だった以前の幼稚園では、戸外で元気に走りまわることが毎日の活動だったため、息子は他の子たちから突出して変わったところが見えませんでした。

それに、座って何かをするとき、お弁当のとき、列を組んで歩かなければならないとき。

際立って落ち着きがない、という状態もなかったんですね。

 

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幼稚園の先生からも、「朝登園したきた時にカバンを放り投げて遊びに入ってしまうので、カバンはロッカーにしまってから遊ぶんだよ、と教えていますが、なかなか出来ないでいますね」

といった、今考えると発達障害の特徴のひとつである行動を教えられただけで、その他には何も困った感はありませんでした。

 

家庭では「無言で座り込む」癇癪はあったものの、幼稚園ではあまりそういったことは見られなかったようです。

 

友達との意思疎通もしっかりしているし、立ってお話を聞いてなければならない運動会のときも、普通にじっとしていられました。

座って絵も描けるし、活動に加わらない、ということも全くなかったようです。

 

今にして思えば「しっかり遊び込む活動」が必ず毎日の中に組み込まれていたので、十分に気持ちが発散できていたのではないか、と思います。

それに幼稚園自体の活動も「誰かと競う」ようなものが少なかったように思います。

そのため、子供たちひとりひとりが「自分はできない」という劣等感を持たずに過ごせたのではないでしょうか。

 

遠足は歩いていける公園での虫取り、夏は園庭での水遊び。

戸外での活動が苦手な子はお部屋で折り紙をしたり、園庭の端っこでたんぽぽケーキを作ったりしていました。

 

考える女性のアイコン





みんなが足並み揃える活動よりも、個々に自由な時間が多かったように思います。

 

教育主体幼稚園では自己肯定感が潰される

 

対して、転園した幼稚園は。

 

気合の入ったクリスマス会の劇練習、音楽祭に向けて、外部から講師を招いた演奏練習、専門の体育指導の先生がついた発表会のある体育競技…。

 

うさぎのアイコン





競わせることで、より能力のある子供たちを伸ばしていこう、というような感じだったよ。

 

保護者もやはり、対照的でしたね。

もちろん幼稚園の教育方針が気に入ってそこに入園させるわけですから、違いが出るのは当たり前なのですが。

 

「幼児期はお勉強よりも、体使ってしっかり遊んでほしいなー」という大らかな保護者が圧倒的な前者と、「幼児期はどんどん吸収する時期!能力を最大限に伸ばしてあげるのが親の務め!」という、燃え盛る炎のような教育魂の集団が多い後者。

 

こんなにも世界観が違ってくるんだなあ、と思いました。

 

考える女性のアイコン





当然ですが、前者の幼稚園では考え方が似通ったママさんがたくさんいるので話も弾みやすく、保護者としてもとても居心地が良かったのですが、後者ではそんなママ友達はできませんでしたね。

 

そもそも子育ての方向性が違うので、仕方ないのですが。

 

誰も知らない土地に転勤してきて、友達もできない、息子の癇癪は激しくなる…。

孤独感が毎日のように積み重なってきて、辛かったですね。

 

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僕の絵を否定しないで

 

そんなある日、転園した幼稚園のバスから降りてきた息子が、クレヨンで描いた絵を持ってきたことがありました。

 

「今日はりんごを描いたの?上手に描けたね」

そう声をかけると。息子は無言で絵を地面に投げつけ、ぽろぽろ涙をこぼしながらお家へと歩き出しました。

びっくりして絵を拾い、理由を問うと「りんごは赤いんだって。塗り直されたの」

 

青いリンゴ

 

息子の描いたりんごは赤をベースに黒く上塗りされていて、茶色の点々を幾つものせた、確かに毒々しいりんごだったようでした。

上からさらに赤いクレヨンでびっちり塗り直されていたので、原作は多分そうだったんだろう、と推測するばかりですが…。

  

観察の好きな息子は、園児の言う「一般的な」赤いリンゴではなく、自分の目で見た通りの「黒っぽい赤で、茶色の斑点が点在する」りんごを描いたのでしょう。

それを「りんごは赤って決まっている。これはりんごじゃない」と、数名に塗り直されたようでした。

 

いくら母親の私が「それでいいんだよ」と言っても、息子は多勢に無勢という言葉を度々噛みしめていたのでしょう。

彼はこれ以降、少しずつ自分の価値観が認められなくなってきました。

 

楽器も出来ない、体操は下手、大好きだった絵さえも否定される…。

そして小学校に上がる頃には自己否定感でパンパンになってしまったのです。

 

まとめ

 

発達障害だからといって、教育主体のところがいけない、とは言えません。

遊びが中心の幼稚園も、教育1本の幼稚園も、それぞれメリットはあるんです。

ただ、息子にとっては、教育中心の幼稚園を選んだのは失敗だった、と思いました。

 

発達障害とは知らなかった頃だったので、仕方ないと言えばそれまでですが。

 

もし幼稚園の頃から発達障害だと分かっていたのなら。

もう少し違う幼稚園の選び方もあったのではないかな。

 

そうしたら、自己否定感をこんなに積み上げることはなかったんじゃないのかな…と、今でも考えてしまうのです。

 

次回、後編に続きます。本日も最後までお読みいただいてありがとうございました。

 

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